お互いの顔がはっきりと見えると、エルバートは冷酷な表情を崩さず、口を開く。
「晩飯を作れ」
「まず今日はビーフシチューだ」
「そして」
「これからは私の事をご主人さまと呼べ」
「かしこまりました」
フェリシアは、命令を受け入れ、ただただ一礼をする。
エルバートに尽すことを心に強く誓いながら。
「では、時間が来るまでゆっくり休め」
エルバートにそう冷たく言われたフェリシアは、すぐさま、案内人に部屋へと案内される。
そして、
初めて見る、
自分には勿体ないほどの上等な部屋。
一人きりになったフェリシアは持ってきていた両親の割れた形見のブローチをぎゅっと胸に抱き、落胆する。
最初から分かっていたことだったけれど。
(ここでもわたしは奴隷扱いなのね……)
* * *
その夜、食事室の椅子に座るエルバートに晩ご飯のビーフチューをお出しする。
ブラン公爵邸の台所は、もはや厨房で、
雇われていたお屋敷の台所とは比べられないほど広く綺麗で、
エルバート以外の料理を任されている自分より2歳年上の、肩までの髪をくくったメイド、リリーシャ・ペルレと共に、
このような場で、ビーフシチューを作っていいものかと身が竦(すく)んだ。
けれど、白く美しい花は持って来られず、添えることは出来なかったもののなんとか、完成させ、お出ししたが、
下級料理番が作ったビーフシチューなど口に合うとはとても思えない。
「座れ」
「はい、失礼致します」
フェリシアは座らせて頂けることに驚きつつも、
空のお盆を持ったまま、向かいの椅子に座る。
そして、ぴりりと冷ややかな空気が流れる中、
エルバートはビーフシチューをスプーンですくい、口にした。
――ああ。
尽そうと決めたばかりだというのに。
(もうご婚約を破棄され、捨てられてしまう!)
「――――この味だ」
エルバートの言葉にフェリシアは両目を見開く。
(この、味?)
「あ、の?」
「やはりあの屋敷のビーフシチューを作っていたのはお前で合っていたのだな」
「え、わたしが雇われていた屋敷に、通われて?」
「あぁ、その屋敷では軍の会議が常に行われており、その度に私は料理を食べていた」
「けれども、館には男性の料理人を雇い、女性の料理人も試したが、どれも口に合わず、軍師長の仕事のモチベーションも下がっていたのだが」
「お前の料理に興味を持った」
「そして、お前が出す全ての料理は口に合った」
「で、では、自分にご婚約の手紙を届けて下さったのは料理で?」
フェリシアはおそるおそる尋ねる。
「あぁ、料理が美味かったからだ、白く美しい花も皿にいつも添えていた」
エルバートが答え、フェリシアは息を飲む。
皿に添えていた白く美しい花も、
自分が作る料理の味など誰も覚えてはいないだろう、と思っていた。
けれど、覚えてくれていた。
フェリシアは感極まり、涙する。
月は今まで見た中で一番美しく、その輝きは穏やかな海面に降り注ぎ、波一つ一つを宝石のように煌かせ、遠くの水平線まで光の絨毯を広げていく。そして足元の岩場に咲く美しき花々は、月光を浴して白く輝き、まるで星々が地上に舞い降りたかのよう。と、美しき光景に心を奪われた時だった。後ろからエルバートに優しく包み込まれる。「ご、ご主人さま?」「今宵、お前とこのように美しき月を見られて本当に良かった」「はい。ご主人さま、月、綺麗ですね」「海も花も月の光で輝いています」こうしてしばらくの間、エルバートに包まれたまま月を眺め、やがてエルバートが手を離すと互いに向き合う。「ご主人さまにお伝えしたきことがあります。聞いて下さいますか?」「あぁ」「ご主人さまが家にご婚約の手紙を届けて下さらなければ、きっとこのような幸せな未来は訪れず、こんなに美しい月も見られなかったと思います」「だからご主人さま、ありがとうございます」「愛しております」(ご主人さまに、この感謝の想いが、愛がちゃんと伝わっただろうか――――)「フェリシア」「は、はい」「私もお前を愛している」「だからもう一度、あの時のように名前で呼んでくれないか?」あの時とは恐らく、初めての夜のことだろう。フェリシアは意を決し、エルバートを見つめる。「…………エルさま」月光の下で名を呼んだ瞬間、エルバートの唇が優しく触れる。とても温かいキスだった。エルバートが唇を離すと穏やかな笑みを零し、フェリシアも優しく微笑む。その後、フェリシアはエルバートと並んで浜辺の流木に座る。すると、どちらからともなく、自然に寄りかかり、肩が触れ合う。そして。(ご主人さまの、この暖かな温もりを、ずっと、ずっと、感じていたい――)と、心の中で思いながら、海を見つめた。どれだけそうしていただろう。フェリシアは昇る日の光で目を覚ました。いつの間にか眠
「あの、ご主人さま? 魔は?」フェリシアは戸惑いながら問いかける。「やはりそう解釈したか。騙した形になってすまない」「私が婚約の手紙を出さなければ、こうしてお前とは出会えなかった」「だから同じように手紙でお前を呼び出すことにした」「お前とここの別荘で今宵、月を見ながら過ごしたくて」(だからいつもと違うお洒落な軍服を着ていたのね)フェリシアが心の中で納得すると、エルバートはフェリシアを離し、近くの別荘に目線を向ける。フェリシアもまた別荘を見ると、朧げではあるが、3歳まで両親と暮らしていた家と同じくらいの大きさの別荘があった。フェリシアは思わず涙する。「フェリシア、その」「もうっ」「ほんとうにすまなかった」「いえ、違うのです。生まれ育った家に帰れたようで嬉しくて……」「そうか」エルバートは安堵したようで、こちらをじっと見つめる。「フェリシア、ビーフシチューを作ってくれないか?」「はい、喜んで」フェリシアは承諾し微笑む。するとクォーツの馬車が遠ざかっていくのが見えた。フェリシアはエルバートとしばしの間馬車を見つめ、やがて馬車が完全に見えなくなると、フェリシアはエルバートと共に別荘まで歩いていく。そして、すぐさま温かみのある厨房でビーフシチューを作り始め、しばらくして完成した赤ワイン煮込みのビーフシチューを居間の木製の椅子に座るエルバートにお出しし、その隣の椅子に座る。すると窓から海が見えることに気づき、横長の机に並んだ状態で座ったまま、窓から時々海を見ながらそれぞれビーフシチューをスプーンですくって食べる。「やはり、お前のビーフシチューは美味いな」「あ、ありがとうございます」「だが、食べさせてくれたらもっと美味く感じるだろうな」(ま、まさか、ご主人さまが、あーんをご所望されるだなんて!)「わ、分かりました。では……」フェリシアはビーフシチューをスプーンで一口
エルバートはユリシーズの封を解き、手紙を取り出し開く。エルバート帝爵、フェリシア嬢、この度はご結婚おめでとうございます。私はハロルドと共に牢を出て貧しい領土に追放され、その地の長と兵士として日々懸命に働いております。私共の命があるのはあなた方のおかげです。これからもおふたりの幸せを心より願っております。読み終わると、フェリシアの両目が潤む。「ユリシーズ殿下、ハロルド様と前を向かれていて良かった」「そうだな」エルバートはユリシーズの手紙をテーブルに置き、ローゼの封を解き、手紙を取り出し開ける。フェリシア、エルバート帝爵様とのご結婚おめでとう。あなたのおかげで毎日有意義に暮らせているわ。あなたは私の誇りよ。ラン、あなたの母もきっと喜んでいると思うわ。これからも頑張りなさいね。「これまでの謝罪もなしか」「良いんです、幸せに暮らせているのならそれで」「そうか、強くなったな」エルバートに頭をぽんと優しく叩かれ、フェリシアは微笑んだ。* * *そして、春が終わりを迎える日。エルバートをいつも通り玄関で待ち続けるも帰って来ない。隣のリリーシャに「エルバート様を驚かせましょう」と提案され、せっかく淡い色調の優雅なドレスを着てお洒落をしたのにこれでは意味がない。「フェリシア様、もうじき帰られますよ、きっと」「そうですね」リリーシャに言葉を返したその時。警備を兼ねながら庭の手入れをしていたクォーツが玄関から駆け入って来る。「只今、アルカディア宮殿の使いの者から手紙が」クォーツに手紙を差し出され受け取ると、その場で封を切って手紙を取り出し開く。至急、アルカディア宮殿付近の花海岸まで来て欲しい。手紙にはそのことだけが記されていた。(ご主人さまが手紙で助けを求めるということはよほどのこと)ルークス皇帝を乗っ取った魔よりも強い魔が現れ、窮地に立たされているとしか思えない。「クォーツさん、今からご
* * *新婚5日目の早朝――廊下を駆ける足音が響く。「ご主人さま!」フェリシアはあるものを手に持ち、居間にいるエルバートまで駆けていくと、エルバートがこちらを見る。「フェリシア、どうした?」「先程廊下でディアムさんから頂きました」フェリシアは手に持っているものを差し出す。するとエルバートは受け取り、その一面を見る。「私達のパレードの様子が書かれた新聞か。完成したのだな」「まだ勤めまで時間がある。ここで共に見よう」「は、はい」返事をし、エルバートとソファーに並んで座るとエルバートが新聞を広げる。新聞には、自分とエルバートの姿がまるで絵画のように美しく愛に満ちた雰囲気で描かれていた。それだけに留まらず、『アルカディア皇国を救ったエルバート帝爵様と祓い姫のフェリシア嬢、壮大かつ幸せなパレードを披露! 世界をも超える祝福に涙!』との事が書かれており、嬉しさと恥ずかしさでいっぱいになる。「あ、あのご主人さま、ずっと気になっていたことが……」「なんだ?」「この結婚指輪は金でなくても大丈夫なのですか?」「あぁ、本来、貴族の結婚指輪は銀より価値の高い金で作るのが普通だ」「しかし、お前が私の髪の色が好きだと言ってくれた。それに応える為、金を銀に変えたのだ」(ご主人さま、わたしの為に……。嬉しいけれど……)「金を銀に変えたら貴族の指輪ではなくなるのでは……?」「あぁ、その通りだ。だから銀を使わず金に銀を混ぜて私の髪色に近いシルバーになるように特注で作ってくれとデザインを聞かれた時に頼み、出来たのがこの指輪だ」「そして、ダイヤも普通は輪の上に乗せるのだが、それだと引っ掛けたりして仕事にならない。よって指輪の中に埋め込むデザインにした」「それで満月のような形になったのですね」フェリシアは納得し、ふとエルバードから目線をずらすと、テーブルに置かれた2通の手紙に気づく。
* * *幸せなど訪れない。ましてや愛されることなどないと思っていた。けれど――――。「フェリシア、こちらを見ろ」フェリシアは玄関の外の扉前で頭を上げる。するとエルバートは優しく微笑み、早朝から手作りした昼食のサンドイッチが入った包みを受け取る。けれどそれだけに留まらず。頬に手をそっと触れられ、とろけるような甘い口づけをされた。その上、ディアム、リリーシャ、ラズール、クォーツに暖かな微笑みで見守られ、フェリシアは恥ずかしさでいっぱいになる。エルバートの唇が離れると、フェリシアは少し怒気を帯びた目でエルバートを見つめた。「も、もうっ! ご主人さま、朝からこんなところでっ」「夜だったら良いのか?」フェリシアは昨日の初めての夜のことを、抱き枕にされながら眠りに落ちていたことを思い返し、ますます顔が熱くなる。するとエルバートはふっと和やかな顔で笑い、昼食の包みを鞄の中に入れる。「では行ってくる」「行ってらっしゃいませ」微笑むと、エルバートに頭を優しくぽんされた。エルバートの瞳から愛されているのが伝わってくる。ご婚約の手紙を受け入れるしかなく、エルバートに尽すことを心に強く誓った日を懐かしいとさえ思う。(わたしは今、こうして、愛に、幸せに包まれている)* * *その晩のことだった。エルバートは朝とはまるで違い、不機嫌な顔でディアムを連れて帰ってきた。理由を聞きたいけれど、とても聞ける雰囲気では…………。「フェリシア様、大丈夫ですよ」「昼食が妻の手作り、しかもハムとチーズ、鹿の干し肉、ゆで卵、レタス、トマトを挟んだサンドイッチでさすが新婚さんは違うと、カイやシルヴィオ、メイド達に冷やかされただけですから」ディアムがスラスラと説明すると、エルバートがディアムに冷ややかな殺気を放つ。「いつものことですからどうかお気になさらず」ディアムが笑顔でフェリシアに向けて言うと、エルバートは
「軍師長、ついに結婚したんですねー」「冷酷な鬼神のエルバートが結婚か。信じられないな」ふたりの言葉に続き、近づいて来たゼインとクランドールにまでも。「私も同感です。エルバート様、無事にご結婚出来て良かったですね」「全くだ。ほんとに結婚出来て良かったな」フェリシアは恐る恐るエルバートの顔を見る。するとエルバートは冷酷な表情をなんとか堪えていた。「エルバートよ、散々な言われようだな」ルークス皇帝がエルバートに声をかけ、側近と共に近づいてくる。「フェリシア嬢、ご結婚、おめでとう」側近があえて本当の父のように挨拶し、エルバートの表情が更に危うくなる。「あ、ありがとうございます」フェリシアが返すとルークス皇帝は、ふっ、と笑う。「ルークス皇帝、何が可笑しいのですか?」「エルバートよ、すまない。だが、本日はほんとうにめでたい」「我が本日この場に立つことが出来たのはお前達ふたりのおかげだ。感謝する」「そして、エルバート、フェリシア、おめでとう」「これからもふたり力を合わせ、光の道を歩んで行かれよ」フェリシアとエルバートは涙を堪えながら静かに頷いた。* * *その日の夜。ふたり用の部屋からバルコニーへ出て、月を見つめる。互いにお風呂は済ませたものの、エルバートの銀色の長髪は微かに濡れており、いつもよりも色香が増している。対して自分はただただ恥ずかしい。「フェリシア、疲れていないか?」「大丈夫です」「本当か?」フェリシアはこくんと頷く。するとエルバートは顔を近づけてくる。フェリシアもまた顔を近づけ、唇が優しく触れ合う。エルバートに髪を掻き分けられ、初めての深く長いキスが降り注がれる。倒れそうになるとエルバートが唇を離し、体を支えられる。「ここではやはり大丈夫ではないな」エルバートにお姫様抱っこをされ、フェリシアはエルバートに抱きつく。そして優しく部屋のベッドに座らされ